無名でも……凄いものは凄い。
おはようございます。 土本です。
一日一記事を目標に、記憶から小ネタを引っ張り出しています、土本です……。
魔境の話で少し触れましたが、
『そこらへんにいる聖人のような「凡人」』
という書き方をした一行がありました。
これについて少しだけ、私が以前聞いたお話を、
ちょっと私流に書いてみます。
ある山奥に、一人で暮らす老人がいました。
その山は有名な霊峰で、老人もまた、有名な覚者でした。
老人は、山中で心穏やかに、毎日を自然とともに暮らしています。
その老人のもとに教えを請いに、一人の青年が訪ねてきました。
青年は、老人の覚者に質問します。
「悟ったのなら、何故、こんな山奥に暮らしているのですか?」
老人の返事はこうでした。
「都会には誘惑が多いだろう? 心穏やかにするために、私はここにいるのだよ」
青年は小首をかしげながら、老人に改めて質問をします。
「そうですか。 あなたの話を聞きたい人を、拒んでいるように感じるのですが……。 ぜひ、あなたの話を、もっと街中で広めれば、と思いますね」
老人は答えました。
「人は本気にならなければ、人の話を聞こうとはしない。 ましてこの老いぼれの話など、誰が聞きましょうか」
青年は、がっかりして下山します。
そして後日、友人にこう話すのでした。
「山奥に覚者の老人がいるって聞いたから、会いに行ったんだけどさ。 全然、普通のおじいちゃんだったよ。 誘惑の多い場所じゃ心が穏やかじゃないらしい。 あと、頭が固くて、俺の話を聞く耳がなかったね。 あれじゃ、毎日の満員電車で見える富士山の姿に、今日の日本を平和に感じる俺たちのほうが、よっぽど覚者だ」
さてはて、このお話しは私が考えましたが。
意図がお分かりいただけるでしょうか。
この青年は、
「都会には誘惑が多いだろう? 心穏やかにするために、私はここにいるのだよ」
という言葉に
(都会でもろもろの誘惑に勝ってる人のほうが、精神力が強いな)。
そう考えました。
「ましてこの老いぼれの話など、誰が聞きましょうか」
という言葉には
(俺は、覚者なら街に出て、もっと世のために動けばいい、と言いたかったのに。 ってかさ、俺が山中まで話聞きに会いに来てるのに、「誰が聞くの?」って態度はおかしいよなぁ。 いや、あれは人の気持ちを考えてない、ただの老人だわ)
と考えていました。
そして最後に、青年は思います。
(山奥には何もないんだから、心が乱されなくて当然じゃないか。 しかも、「街中で他の人にも教えてあげて欲しい」って俺の気持ちを、全く聞いてないじゃないか。 そのくせ、話を聞いてもらえないからって、努力もしないで知恵を独り占めだ! なんて身勝手なのだろう! 覚者とは名ばかりだな!)
さて、皆さまはどう感じますか?
覚者と呼ばれる老人に、これだけの不満を抱く青年は、
老人より若いだけなのでしょうか。
それとも青年が思ったように、老人は身勝手なのでしょうか。
『そこらへんにいる聖人のような「凡人」』とは、どういう意味になるでしょうか?
ゆっくり考えて、今日の思考トレーニングの材料にしてくださいね!
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