優しさってなんだろう?

 土本です! リニューアル後、第一回目の記事になります。

 私は常々「優しさとは何だろうか」ということを、行動の基準としています。


 私は、趣味で”小説”を書く立場なので、細かいことが気になってしまうのですが、

 特に力を入れているのは「登場人物の語る優しさ」とは何か、ということ。


 例えば、登場人物Aが思う優しさは、真実を話すこと。

 Bにとっての優しさは、甘やかしてもらうこと。

 Cにとっては放っておいてもらうことで、Dにとってはエスコートされること……。


 もうお分かりかと思いますが、

「優しさ」そのものに「定義」をつけているのは、本人ですね。


 そして私にとっての優しさは「それがその人の為になるか?」という考えです。

 私にとっては、「その人の為になるかどうか」で判断すると、

 それは「自分への」甘やかしなのかどうかが、ハッキリと見えてくるんですよ。


 ここでハッキリ言わないと、この人は一生勘違いしたまま突っ走るだろう。

 言ったからといって、分かる見込みはない。

 でも、相手のためには、一応言っておいてあげよう。

 言っとけば、いつか分かるかもしれない。


 私が思う愛や優しさは、”現時点では”こんな形になります。


 この人には「分からないかもしれない」から「言わないでおこう」

 そのほうが「楽」だし「文句も言われない」。

 そういった思考に流れた場合は、「エゴが爆発してるなぁ」と判断します。


 私の中でこれらは愛ではなく、優しさでもなく、

「我よし」であり「分離思考」で、「相手と私は別人」と思ってるなぁと感じるわけです。



 私は、私が関わる方々に、少し考えてみてほしいのですが。


「自分が考えること」を「他者が考えてない」と思うほうが、

 なんだか不自然だなぁ、と感じた瞬間はありますか?


 日曜日だ、天気もいい、仕事は休み。 出かけよう。


 自分がそう思った場合、はたして世界のどれくらいの人が、そう思うでしょうか?


 日曜日だ、天気もいい、仕事は休み。 家で洗濯をしよう。

 日曜日だ、天気もいい、仕事は休み。 家の日当たり良い場所で本を読もう。

 日曜日だ、天気もいい、仕事は休み。 うーん、でも今の自分には関係ないかも。


 など。

 自分がこれらのことを考えた時、

「自分だけがそう思っている」と確信を持てるでしょうか。


 話を戻します。


 この人は「分からないかもしれない」から「言わないでおこう」

 そのほうが「楽」だし「文句も言われない」。


 あなたがそう思っていたとします。


 ではあなたが、周囲からそう扱われていないと言える自信はありますか?

 あなたが知りたい情報を、「この人きっと分からないだろうなぁ」と、

 出し惜しみされたら、どう感じますか?


 それどころか、「情報伝えたら、文句言われるかも……」と思われていたら。


 それはあなたにとって、優しさでしょうか。

 愛情表現と言えるでしょうか。


 究極的なことを書いてしまうと、

「この世界に愛でないものは存在しない」のですが……。

 そことはまた違うお話しです。


 優しさの定義を見つめなおすと、自分にとってどうなったか? という部分において、

 私は数年前に、この結論に辿り着きました。


 私にとって出し惜しみは、優しさではなかったのですね。


 もちろん、今後生きていく中では、何らかの発見とともに変わることもあると思います。


「必要がない」と感じた時には、言わないこともあります。

「面倒だから……」といった思考に、行動が関連付けられていない時には、そうします。


 人は実に多くのことを、自分勝手に解釈します。

 その一例として、今日はこの話題を選びました。


「この人は分からないかもしれないから、言わないでおこう」


 自分はその行動を優しさと感じていても……。

 自分がされたら嫌だという、矛盾に陥ってるかもしれないですね。


 自分がされたら嫌なことでも、それは「優しさ」だと、

 自信を持って「自分自身に」語れるでしょうか。


 少し時間を取って考えてみると、面白いかもしれないですね!

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